≪池田屋事件≫



元治元年になり幕府、薩摩、会津に京から追い落とされた長州の動きはますます過激さを増し、
起死回生の手段として京都御所に火を放ち、混乱に乗じて天皇を長州に連れ去り、
松平容保
(京都守護職・会津藩主)の命を奪い中川宮(薩摩系公御)を捕らえ勅命をもらい長州藩を京都守護職に任ずると言う天皇奪回計画を企てていた。鎮重派の桂小五郎はなだめようとしていた・・

計画実行の6月5日は京は祇園祭だった
そんな折に長州人をかくまってくれる店は木屋町三条の四国屋と河原町三条小橋の池田屋の2軒であった。
これに感化され神戸海軍演習所から北添佶磨と望月亀弥太も加わっていた

新撰組は京都祇園会所で武装して会津や所司代の応援を待っていたがあまりに遅いことから
土方の指示の下、新撰組のみで斬り込む決断をした。
新撰組は池田屋と四国屋、近藤と土方二つの隊に分かれて斬り込んだ。
池田屋で口火を切ったのは養子縁組をしたばかりの近藤周平と言う説もありデビュー戦だった。
遅れてきた会津隊を土方は追い返したが、外に逃げ出した志士により幕兵ら即死10名、負傷50名の被害を与えた。
新選組隊士の被害は即死1名、死亡2名、藤堂平助が重傷、長倉新八が軽傷を負った

これにより新選組の名は天下に知れ渡った。(今も元気に営業してます)